芦原義信  わが軌跡を語る2
海軍に入隊
――先生はご結婚が早かったですね。
  私の女房は成城の同級生の妹なんですけどね。軽井沢のテニスコートか何かで知り会って、軍隊へ行く前に結婚しようと思っていたんです。だけど、そうもいかずに、その年から海軍に建築の技術士官というのができましてね、それじゃというので海軍に入ったのです。そうしているうち青島に訓練にやらされまして、帰ってきて見習い尉官というのかな、中尉ぐらいになって、設営隊中隊長でニューギニアにやられることになって、もうこれはとても会えないかなと思って半ばあきらめていたけれども、雄々しく出陣しちゃったんです。
  東京で設営隊を編成しまして、船団を組んで2隻で行ったんです。私は4中隊の中隊長でした、フィリピン沖で潜水艦に1隻撃沈されてね、半分、油だらけの人員を拾い上げて、ハルマヘラ島までとにかくたどりついて、それからニューギニアヘ行ったんです。あのころは非常に覚悟がよかったのか、恐しいとも思わずやりました。
  私の中隊には「め組」の親分とか浅草の小熊の安さんとか横浜の三森宗五郎とか、トビとか大工さんがいましてね。私は大学出たばかりで、まったく世の中のことは何も知らない青年でした。ところが、潜水艦攻撃をうけてからは一致団結してね、私のいうことがよく伝わって、そういう危い目に遭えぱ遭うほど、ほんとに一生懸命やりましたね。
  それで、ニューギニアにやっと着いた。オーストラリア側の最前線で飛行場をつくっていたんだけれども、日本の飛行機がついに1機もこないうちに、海軍記念日にグラマンにやられた。そしてアンボン島に引き揚げるというので、私が輸送指揮官をやらされ、生まれてはじめて、どこで月が沈んでどうだこうだ、積み荷の重さはどうだと計算して、夜中に3、000人と機材を積んで無事に行き着いたんです。
  その前に、せっかくつくった飛行場を何にも使わないのは残念だというので、軍医で塚原君というのがいて、ふたりでテニスの球とラケットを持って、危ないからパッパッと1回か2回打ち合って、それで帰ったんです。(笑い) それでね、ハルマヘラ島に転進して着いたんですけど、そのすぐ目の前のモ・タイ島というところにアメリカ軍が上陸していました。ハルマヘラ島にいた時、転勤命令が出たんですけど、敵前封鎖されて帰れない。そのとき、私は中尉で、清水建設の広島支店にいた朝日(保)君というのが少尉で、傷病兵を連れていたんです。ところが猛烈な攻撃をうけて、いよいよ上陸部隊がやってくるような状態になってきました。捕虜になっちゃいけないと司令官からいわれていたので、「突撃!!」っていったら、朝日が「待て待て」というわけだ。しばらくしたら、敵はスーッと回って帰ったんですよ。それで助かったんです、この間も朝日に会ったんだけど、「きみは命の恩人だ」、「芦原はそそっかしいから危なくてしょうがない」といわれてね。
  それで、私は偵察機に乗ってアンボン島の司令部に帰ったんです。そのとき、偵察機のパイロットの座席の下の機械の中に乗せられて、お尻が痛くてしょうがないんでセーターを敷いて、そのセーターをみごと忘れてきた。それが何と奥さんになる人が編んだものだったんです。あとになって聞いたのですが、その日私が死にそうだというのが、なんとなくわかったっていってました。

結婚
 そうして巡り巡って無事に鹿児島に着いて、あとは飛行基地の建設をやって、最後、霞が浦にいましたが、その前に結婚しました。、小見川の渡しの先のほうにいたんです。佐原砂漠ってイモしか生えないようなところに航空隊があるんですが、そこの建設をやっていたんです。とにかく昭和!9年12月24日に結婚して佐原の駅前の宿屋に泊まったら、特攻隊が飲んでいる。そんな時代でしたね。私は隊へ帰らなければならない。ウチの奥さんは霞が浦の渡しなんか渡りながら近所の鹿島あたりに下宿して、それで新婚生活がはじまったわけです。井戸が深くて、お風呂も1日ひとたらいぐらいしか汲めない。大変でしたね。桃屋の五郎兵衛さんとか、いろいろな家に下宿して、爆撃を食うから次々に移動して、10軒ぐらい引っ越したんじゃないかな。私は隊にいたけれど・・・
  隊では、また設営隊長をしていたんです。最後は木更津の芦原部隊長をやりました。海軍技術大尉です。
  それで終戦になりましたら、木更津はマッカーサーがすぐ退去しろというんで、兵隊を連れて食糧を積んで大網に疎開し、そこで終戦の処理をしたんです。最後、死ぬときに食べようといった虎屋の羊葵とか大事なものだけ積んだトラックが、途中で峠を越えるときひっくり返ったんです、そうしたらみんなワーッと出てきて、みんな取られちゃった。(笑い)
  それで復員してきたんですけど、四谷の家も親戚もみんな焼けてなくなってました。幸い女房の家だけ参宮橋のところに焼け残っていたので、そこに入れて、私たちは女中部屋に入って、兄貴はあっちに入ってというような騒ぎでした。
  そのとき東京都の復興計画のコンペがあったんですよ。それで、応接間の床にケント紙を張って、そこで新宿の計画の図面をかいて出したのです。丹下さんは銀座の計画かなんかでしたね。そうしたら、私の案は佳作入選したんです。

復興計画コンペから出発
――その復興計画のコンペは、誰かと一緒になさったのですか。
  いえ、ひとりでした。ただ、新宿は駅に線路がいっぱいあるでしょ、それで、井上公資さんという大学で私よりちょっと後輩の土木の人がふらっと遊びにきたので、その人に線路をかいてもらったんです。ところが、それがあとで「ソニービル」の話につながるんです。その人が何年かして、ソニーの宣伝部長をやったり、ソニービルを建設するときの責任者になって、何を思い出したか、その人が突然訪ねてきて「芦原さん、今度数寄屋橋にソニービルをやるんだけど、いま井探さんや盛田さんが待っているからすぐ会いなさい」って、連れて行かれたんです。そういう縁でソニービルの設計をやったんです。
――それが設計へ進まれる契機になったわけですね。
  そうなんです。おなかがすいてどうにもならなかったんだけど、設計をやろうかなと思ったわけです。復員した人はみんな運輸省に入れといわれたんですよ。だけどいままで、大学卒業していきなり中隊長をさせられたりして、実力もないのに上役にされていたので、今度はひとつ下からやり直してみようと思い、それで勤めなかったんです。
  そのコンペの後、どうしようかなと思っていたときに伝手がありまして、いまの新日鉄の八幡のヘルスセンター、戦後はじめての鉄骨の工事なんですけど、それをある建設会社がやることになりましてね。小さな2階建てです。それで、私は鉄骨なんてあまりよく知らないんですが、小野薫先生という方がおられ、この先生に相談してずいぶん助けてもらいました。それは今からみればほんとに情けない建物だったですけれども、それが日本の戦後はじめての鉄骨の建物だったんです。
  その縁で、小野先生と親しくなりまして、それが終わったときやることないんでね、「何か使いみちないですか」と相談したんです。小野先生はそれじゃ、北代禮一郎君という、まだ大学を出たてなんだけれども、おやじさんが偉くて事務所もできているので、それと一緒にやりなさいというんで、現代建築研究所に入れてもらったんです。その前はえらい苦労していて、いま武蔵美大の教授をしている寺田秀夫君と新日鉄をいっしょにやっていたんで、彼とふたりで困ったなといっていたところに、その現代建築研究所にふたりとも就職できることになったんです。事務所は八重洲口のビルなんですよ。それはうれしかったですね。おなかすいたから昼、ふたりで天丼か何か食べて、収入はいずれあるから今日はあり金をみなはたいて食べちゃおうよって食べたのが感激的だったですね。

ハーバードへ留学
 それで、現代建築研究所にお世話になっていたんですけれども、どうしてもアメリカに留学したいと思って、留学生試験を受けたんです。ところが、会話の試験みたいなものが全然わからなくて、みごと落第しました。それで捲土重来を期して、今度は少し勉強して翌年受けて、昭和27年にハーバードへ行けることになったのです。戦後ハーバードの建築へ行ったのは私がはじめてでした。
  そのころは家のほうも大変でね。女房は収入ないし、金融公庫でちっぽけな家を建てて、それで新建築社にお願いしてウチの奥さんを雇ってもらって、英文のほうをやっていたんです。だからいまの吉田社長も、若いときからみんなよく知っているんです。留学するときすでに子供もふたりいたんですけど、向こうで出るのは学費だけで、こっちは一銭も収入ないからね。でも、よくがんばってくれましたよ。
――留学された昭和27年というと、朝鮮戦争の最中ですね。
  そうです。それにしても向こうへ行って、もう見るもの聞くものびっくりしましたね。とにかく学生の食堂ったって、朝から牛乳飲み放題、卵食べ放題。こっちはおなかすいてしょうがなかった時代でしたから、ほんとにびっくりしましたね。いまの学生はかえって気の毒ですよ、向こうへ行っても見るもの聞くものみんなびっくりしないんだね。「日本のほうがいいじゃない」なんていう時代ですから。(笑い)
――ハーバードでは如何でしたか
  私は、工学部を出たから、バチュラー・オブ・サイエンス、B・Sと書けと教えられたんで、B・Sと書いた。ところがハーバードへ行ったら、バチュラー・オプ・アーキテクチュアはマスターコースに入れてくれるけど、B・Sだと1年生に入れられてしまうんです。そうするとマスターを取るのに4年かかるんですよ。それがわかって、「とんでもない。私はバチュラー・オプ・アーキテクチュアなんだから、ぜひマスターコースに入れてくれ」と。そこに入れてくれれば1年でマスターが取れる。ところが、「本来ならきみは1年生だが、トシだから3年生に入れてやる」っていうんです。それでもマスターとるのに2年かかるんです。
  羽田から歓呼の声に送られて、功成らずんば帰ることもできない。という気持ちで行っているから、ここでやられちゃ大変というんでね。(笑い)それからもう大奮闘してね。ニューヨークから資料を取ったり、「試験するならしてみてくれ」とか、いろいろやってね。ボクナー教授と大議論して、ついにやっと入れてくれた。だから、私のあとからきた人は、みんなスムーズにマスターコースに入れたんです。ほんとにいま考えると、英語もろくろくできないのによく闘ったと思いますね。(笑い)あのころは悲愴でしたからね。妻子抱えているし、そんないつまでもふらふらしていられないから。
  マスターコースでは4課題あるんですよ。ちょうどグロピウスがよして、セルトがくる間のときで、4人のビジティング・プロフェッサーズで4課題出された。それで設計講評があるんです。いっぱい先生がきて、学生の説明のあとで質問する。それをどうにかうまく説得して、いいということにしなければならない。ところが、なにせ英語が下手だし、協力しようといってきた男がスットンキョウな男でうまく行かなくて、みごとに第1回は非常に不満足、それでくやしくてくやしくてね、その次はひとりでやるってがんばって、次はまぁまぁでしたね。4課題無事に終了して、あのガウンを着て卒業できました。

マルセル・ブロイヤー事務所へ
 私はかねてからマルセル・プロイヤーの空間構成に非常に興味を持っていたものですから、卒業したらぜひ雇ってもらいたいということで、プロイヤーのところに手紙を出したんですが、ちょうどパリのユネスコの仕事があって1ヵ月ぐらい帰ってこないというので、その間ケンブリッジで、所長さんと私と秘書の3人しかいない小さな事務所を手伝いました。そうしているうちにブロイヤーから手紙がきて「会いにこい」というので、それから急遽ニューヨークに会いにアルフレッド・ロートの推薦状を持っていって、入れてもらいました。すぐニューヨークに引っ越して、1年足らずですがブロイヤーの事務所に勤めたんです。
  ブロイヤーは非常に温顔で、毎日、午前中ぐるぐると製図台を回っていました。一緒にいたのは、いまパートナーになっている連中とか、デビッド・クレインというボストンの都市計画局長になった人や、それからワシントン大学教授になったフィリップ・シール。彼は非常に日本のことに興味を持っていて、私が入ったらすぐ彼が飛んできて、日本のことをいろいろと聞きにきましてね。2週間ぐらい一緒にいるうちにカリフォルニア大学の先生になって、それから日本の二世と結婚して、いまでも非常に仲がいいです。そういう連中がいましたが、みんな秀才ばかりでね。ブロイヤーはものすごくやさしい、いいおやじでしたが、ほかはひややかな、みんな図面なんかうまいんですが、なかなか辛らつな連中ばかりでしたね。いまでもいるんですよ。それで、ときどきニューヨークへ行ってからかうんだ。そのころはおっかなかったけれども、いまはね、「お、まだこんなところにいるのか」って。(笑い)
――何人ぐらいの事務所でしたか。
  30人ぐらいいましたかね。
――留学中に首相の中曾根さんとテニスをしている写真がありますね。
  あれはね、ハーバードに私がいるとき、中曽根さんと社会党の藤巻さんという人と、NHKの解説委員していた藤瀬五郎さん、それから中野つやさんという都庁の女の偉い人の4人が、リーダース・プログラムというので2ヵ月ぐらい留学されたんです。飯ごうでごはんを炊いて一緒に食べたり、夜中までよくしゃべったりしましたね。彼はそのとき衆議院議員2回目ぐらいだったかな。中曽根さんはそのとき英語で放送したんだ。なかなか声がいいっていうんで評判だった。あのころから英語はうまかったですね。帰国後ブロイヤー調のスブリット・レベルの中曽根邸を設計しました。
――そのころは日本人の留学生は少ないから、わりあい団結されていたわけですね。
  そう、ほんとに日本はまだ経済力もなく、情けない時代でしたからね。ただし、そのころはアメリカ人はみんなネクタイをきちっとしてね。カメラなんか忘れたってなくならないし、日本人には申し訳ないという感じがしていたから、感謝祭なんていうと、すぐ招かれたりしてね。大変きちっとした時代でした。
  この間ハーバードへ行ってびっくりしたのは、私たちのいたドミトリーに女の人がいて――昔は女人禁制だから、食堂ぐらいにしか入れなかったんですよ。そして女の人が部屋に入ったら、ドアは30センチあけておけといわれたぐらい厳しかったのに、今度行ったら全部女の人に占拠されて、中で煮たきしたり、ごちょごちょやっている。私たちのころは白人のおばさんが枕覆いを替えたり灰皿を整理したり、一切そういう雑事はやっちゃいかんというジェントルマン教育だった。アリリカのもっともいい時代でしたね。

ヨーロッパを回って帰る
それから、マスターを取ると1年間働いていいということでしたが、それが終わるころにどうしてもヨーロッパへ行きたいと思って、ロックフエラー財団の奨学金をアプライしてみたんです。そうしたら会いにこいというんで、いまでもよく覚えているんですが、ファーズ博土がヒューマニティ部門のディレクターをしていたんですが、その方に会いに行って「どうしてもヨーロッパへ行きたいんだ、建築というものは本で読んでもわからない。体で感じないとできないから、ぜひ行かせてくれ」っていったら、なかなかいいこというじゃないか、それじゃ行きなさいって、それでイタリアとスイスとフランスへ行ったんです。フランスでは叔父(藤田嗣治)のモンパルナスの家に2ヵ月ぐらい下宿して、パリを毎日とことこ歩き回ったんです。それでパリをわりとよく知っているんです。
  それからイタリアへ行きましてね、シエナやサンジミニアーノなんかの広場を見て、木も土もなく石の建物で取り囲まれていて、日本の発散的な空間と違って収斂性のある空間を見てびっくりしたんです。それが今日の私の思想の根源をなしていると思います。
  それからマルセイユに出まして、日本郵船の貨物船に乗ったんですよ、40日かかってインド洋を越えて帰ってきました。そのとき乗っていたのが京大法学部の措木正道教授、東大法学部の久保教授、それからあと東大医学部のお医者さんと女の人ひとり、もうひとり関西大学の学長になった中谷敬譲教授がいました。
  猪木さんにマルセイユで会ったので、「お茶でも飲みましょう」っていったら、「お茶要りません」っていうんです。それから乗ってみたら、実はみんなお金を全部使っちゃっていたんですね。日本郵船だからって安心して、まァ、私はお茶飲むぐらいはあったけど、指木さん、一銭もなかったようですよ。
  それでパーサーにすぐ名前と住所をいって借金したんですが、途中の寄港地でちょっとおりるったってお金がないから、みんなお弁当つくってもらってね。そうして神戸に着いたんですけど、奥さんにお金持ってきてくれって電報打って、そうでないとおろしてくれないわけですよ。
  帰ってきて、さァ、どうしようかな、これから何しようかなと思って、丸ビルを歩いているとき、中央公論の栗本和夫さんという専務にばったり会ったんです。「おまえ、何してるんだ」「実はアメリカで建築を勉強してきたんだけれども、どうしようかと考えているところなんです」と。この方を何で知っているかというとね、兄貴の英了が「婦人公論」の編集長をその前にやっていたんで、栗本さんの顔をときどき見たことがあるんです。「実は中央公論がいま70周年の記念にビルを建てることになっていて、清水建設に頼んじゃったけれども、それなら、おまえ、案を持ってきなさい」というわけです。それで、寺田君だの織本君だの仲間2〜3人集まって、徹夜徹夜でつくって持って行ったら、「お、これはいいじゃないの」っていって、やらせてもらうことになったんです。丸抱えでね。

 
妻・初子と軽井沢にて
海軍中尉として
新日鉄八幡
ヘルスセンター
羽田を出発
ハーバードの第1課題
ショッピングセンター
ハーバードの第2課題
コミュニティーセンター
ハーバードの卒業式
ブロイヤーを東京に招く
ハーバードで
中曽根氏とテニス
ブロイヤースタイルの
中曽根邸
ブロイヤースタイルの
中曽根邸断面図
藤田画伯 in Paris
藤田嗣治邸にて
中央公論社ビル